池永 憲彦 KAZUHIKO IKENAGA
レモン・IT・音楽で
社会をゆたかに面白く。
リモンライフ株式会社 代表取締役
ZEZEZE株式会社 代表取締役
PRANK PLAN 初期メンバー
生年月日:1977年3月31日 O型・牡羊座
出身地:広島県尾道市
趣味:食材・健康、旅、料理、音楽、日本酒
レモン × 地域ブランディング
国産レモンの普及に向け、瀬戸田レモンを軸に一次産業から商品開発・販路拡大を支援
● 福祉 × 教育 × 地域連携
地域・教育・医療福祉をつなぐプラットフォーム構築とブランディングを推進
● 顧問・伴走者としての活動
複数の法人・NPO・行政と共に、事業企画の構想段階から関係構築までを共創
● エンタメ × ソーシャルアクション
PRANK PLANプロデューサーとして、音楽・福祉・エンタメを融合した参加型ライブを展開
● モスバーガー 公式応援団
商品本部顧問として商品開発・原料調達・企画などをサポート
ストーリー:ミュージシャンからレモン社長へ
大学時代、サークル仲間と組んだバンドで2003年全国バンドコンテスト優勝。2005年にJ-POPバンド「ジャンクルーズ」としてメジャーデビューし、3枚のアルバムをリリースするも、喉の病気により音楽活動を断念。
その後、パラリンピック選手・谷(佐藤)真海さんと共に、パラリンピックの普及活動に携わる。有志とともにNPO法人「Happy Japan
Project」を設立し、全国各地でイベントや講演を展開。
現在も活動を継続し、多方面にわたる社会貢献の輪を広げている。
2013年地元尾道の食材「瀬戸田のレモン」「瀬戸内のレモン」に注目し、国産レモンの魅力と価値を広めるべく、レモンに特化した事業を開始。
翌年、リモンライフ株式会社を設立。レモン生産者と連携した商品開発や販路開拓を行い、瀬戸内レモンブームとともに、国産レモン業界を代表する一人として知られるようになる。
ご縁は、瀬戸内レモンや柑橘原料のサポートから始まった。現在も続くモスの大人気シリーズ「国産レモン&柑橘ジンジャーエール」の企画サポートと原料調達をきっかけに2020年正式に株式会社モスフードサービスの顧問に就任。商品本部と連携し、商品開発や原料調達、企画提案などを継続的にサポートしている。
業界を越えたコネクションと現場感を活かし、事業と社会の間をつなぐハブ役として活動。
レモン、生産者、福祉、教育、そしてPRANK PLANではふざけた真剣を現場に届ける。
ジャンルを越えて、誰かが輝ける瞬間をつくり続けている。
企業・団体との関わり
法人代表 リモンライフ株式会社 代表取締役/ ZEZEZE株式会社 代表取締役
顧問
株式会社モスフードサービス/株式会社大洋工芸/株式会社グロップ/クロスボーダー株式会社/ミキハウス子育て総研/医療法人八千代会グループ/ベストアメニティ株式会社
ソーシャルアクティビティ
音楽・表現活動
映画出演
家族
妻・長男(将大)次男(澄大)長女(奈羽花)
●医療・介護法人と連携した介護プラットフォーム
「@oneness.」の構築・運営
●地域資源のリブランディング
●現場に入り込みながら、事業と社会課題をつなぐ伴走型コンサルティングを実施
●多様なプレイヤーとの共創により、“社会に効く”事業の立ち上げと価値創造を支援
大隅レモンの詳細は上記写真をクリックお願い致します。
瀬戸田Oosumiレモン 現在:耕地面積 12400坪
新農園 苗木新たに900本
NPO法人Happy Japan Project 理事
◆発起人:パラリンピックアスリート「佐藤真海」と仲間と共に立ち上げた。パラリンピック競技を通して命の大切さ、夢をあきらめない事、チャレンジ精神を次世代に伝える。パラリンピック選手壮行会イベント、五輪招致委員会コラボイベント、ヤクルト球団始球式&コラボパラリンピックコラボイベント、全国小、中学校講演など幅広い活動をする。
詳しい活動報告は写真をクリック
◆夢を翔ける~パラリンピックアスリートからあなたへ~(発起人)
2008年3月 東京プリンスホテル(北京パラリンピック普及イベント)
◆夢を翔ける~オリンピアン・パラリンピアンからあなたへ~
2009年11月 バンクーバーパラリンピック選手壮行会 ホテルニューオークラ 発起人
◆ヤクルトスワローズ「パラリンピックDAY」神宮球場始球式 発起人
◆パラリンピック写真展(越智貴雄) 都庁1F
◆佐藤真海講演会(全国小、中学校)
◆佐藤真海 凱旋トーク交流イベント 気仙沼 発起人
◆施設訪問LIVE、Xmasチャリティライブ&訪問(2008年~2018年)
◆尾道施設どんぐり工房 カレンダープロデュース(2008年~2010年)
18年目を迎える活動
2007年10月21日にJICAと池永の共同企画として始まった渋谷早朝ごみ拾いは、現在HJPに受け継がれ、毎月1度のペースで開催されている。朝7:00に渋谷ハチ公前に集合し、代々木公園まで約二時間拾い続ける。2025年で18年目を迎える。
渋谷早朝ゴミ拾い WEBSITE
「活動報告」は
写真をクリック
◆池永に集まった義援金の総額は
1千万円以上。気仙沼に通い、復興まで共に歩いていく事を誓う。数々のイベントを仕掛ける。
その輪はかなりの勢いで広がる。
◆気仙沼復興応援者
富司純子さん(女優)、井ノ原さん、丸山和也さん (国際弁護士)、森田直幸さん (俳優)鈴木あいさん(シンガー)
大田原保様、湯浅久美様、浜中和子様、宇根本茂様、てっぱん同盟の皆様、尾道JCの皆様、尾道東ロータリークラブの皆様、有志の皆様
◆宮城・三陸フェア 東京ドームホテルリラッサ
東京ドーム執行役員久岡氏の協力のもと企画成立。統括シェフの野上シェフを気仙沼にお連れし、実際に食材を見ていただく。約12社からの仕入れ決定。400席のビュッフェレストラン「リラッサ」で約1・5ケ月の間気仙沼の食がふるまわれた。
池永企画で100人以上の気仙沼パーティも開催され、第一回は小野寺元防衛大臣、第二回は富司純子さんが出席いただいた。
◆~Teppan KITCHEN~はまらいん恵比寿本店
株式会社WIDE ISLANDの石原氏と共に気仙沼と瀬戸内の食材のコラボ店を企画。恵比寿駅近にオープン。気仙沼の食材が常に味わえる店に。
◆気仙沼市より感謝状授与 2016年
長年の貢献を認めていただき、気仙沼市長と気仙沼教育長より感謝状が授与された。
熊本震災活動
益城町応援プロジェクト 発起人
池永と縁のあった益城町ひろやす荘を拠点にした応援活動中。集まった義援金は総額500万円。(富司純子様、井ノ原様
、浜中和子様、大田原保様、湯浅久美様、有志の皆様)
●第一回 2016年4月24日
物資支援と義援金
富司純子さんの義援金と物資を届ける。神社本庁の渡邊剛氏の応援のもとHJPの活動として
現地入りし、全国から神社へ集まった物資を届ける。
●第二回 2016年5月27日
気仙沼からアドバイザー派遣
同じ老人福祉施設を運営しながら震災に合い、5年間街の復興の中心人物として活動に尽力された「気仙沼キングスガーデン」の山崎本部長と佐藤由美子事務長をアドバイザーとして来て頂いた。
●第三回 2016年6月3日
尾道&気仙沼グルメと「瀬戸内レモネード」&MUSIC
震災以降避難所としても開放して、自身が被災しながらも復旧活動を続けたひろやす荘のスタッフさんとそのご家族、そして避難所の方々に楽しい時間を過ごしてもらいたいと企画。
共に復興に向けて歩んでいる気仙沼のグルメと、尾道のお好み焼きを食べて頂いた。
大御所女優のシークレットゲストが駆けつけてくださり、現地の人に希望を与えた。応援コンサートもあり、笑顔多い時間となった。
●第四回 2016年9月3日
益城町応援コンサート~音楽の園~
アーティスト
池永憲彦/松瀬一昭/鈴木あい/井上フヂヲ
ひろやす荘の利用者さんに向けてのコンサートと義援金贈呈(ひろやす荘20万/愛児園20万)ひろやす荘生活相談課長より「間違いなく、震災以降一番盛り上がったイベントです」と言っていただいた。
●第五回 2016年10月15日
芸能人サプライズ訪問
益城町ひろやす荘にて、震災から半年のイベントの前日にこの活動にずっと力を貸してくれている朝の顔で有名な芸能人のサプライズ訪問を実地。職員の皆さんから利用者の皆さんの大きな励みとなった。
●第六回 2017年4月15日(土)
熊本地震復興イベント2017
尾道&気仙沼グルメ!Music&Salon in ひろやす荘
益城町の復興応援の拠点ひろやす荘にて、震災から一年が経過したその日に応援イベントを開催しました。県外から駆けつけたボランティアスタッフは総勢23名。音楽やグルメや沢山んのコンテンツに参加者の皆さまより嬉しい言葉を沢山いただきました。当時の様子は真相報道バンキシャ(日テレ)で紹介されました。尾道では山陽日日新聞で紹介されました。
●第七回 2018年4月15日
震災から2年経ったこの日。益城町応援イベントを開催しました。雨の予報70%の中、イベントの時だけは晴れ。今までで一番の参加者人数になりました。
主催:NPO法人Happy Japan Project
協力(順不同):尾道てっぱん料理クラブ、荏原商事株式会社、おはな整骨院、チームHJP、チームGANKOYA,AISe、社会福祉法人キングスガーデン宮城、尾道の味 大丸、特別養護老人ホームひろやす荘
寄付:(順不同):浜中和子 / 大田原保 / 湯浅久美 /井ノ原/ 富司純子
協賛:(順不同)大塚製薬株式会社 /㈱モスファーム熊本 / 福寿水産株式会社/和菓子宝月/頑固屋有限会社
◆2007年:日韓合作映画「あなたを忘れない」ヒロイン(マーキー)のバンドのギタリスト「カズ役」で出演。
◆2012年映画「アオギリにたくして」の主演田中節子の兄「田中浩二」役で出演。
出演:原日出子、風見しんご他
その他
2011年 山田洋次監督50周年記念舞台「東京物語」の主役「水谷八重子」「安井昌二」「波乃久里子」の尾道弁の方言指導を努める。
(詳細は上記写真をクリック)
カズが所属していたJ-POPバンド
ボーカル・作詞・作曲担当
2003年に1000バンド以上のエントリーがあった
全国大会soundコンテストでグランプリをきっかけに
全国デビュー。3枚CDリリースしたが、喉の病気で活動休止。
プラスティック・オノ☆ミチ・バンド
尾道出身のバンドでメジャーデビューした「THE 東南西北」の清水氏、大池氏とサウンドトレジャーバンドの井上氏、六反氏が集結したバンド。音楽の実力では相当な評価あり。
チケットは毎回完売御礼☆2013年初アルバムPoBESTリリース。
好きなように集まり、好きなように音楽を
奏でてきたP・O・Bがついに作品を生み出した。
構想から2年
今までの音楽人生をフルに生かし、
アレンジ、レコーディング、ミックスまで
全てメンバーセルフ制作の渾身の作品。
全7曲収録の PoBEST~BLUE DISC~
9月21日にその幕は開けられる。
元ポップスバンドならではの
キャッチーな曲からonomichiの風土に
合ったアレンジの曲、バラードまで
聴きごたえのある1枚だ。(自称)
視聴は左の画像をクリック!!
昔のプロフィール
2001年ポップスバンド「ジャンクルーズ」を結成。「航海」を一つのキーワードに、多彩な音楽のジャンルを織り交ぜた楽曲を公開。2003年Sound Contest03にて全国大会でグランプリ受賞をきっかけに1stアルバム「WILD JOURNEY」でデビュー。
◆映画出演◆
2007年1月公開された日韓合作映画「あなたを忘れない」のオーディションを通過し、ヒロイン(マーキー)のバンドのギタリスト「カズ役」で出演。それをきっかけに韓国との交流が広がっていく。(翌年には韓国学生奨学金集めのライブを開催し、ライブ代全額寄付。初のソロライブになる)きっかけとなったJR新大久保駅で酔っ払いを助けて亡くなったイスヒョンさんのご両親、共演した原日出子さん、金子貴俊さんとはその後も交流が続く。
◆ジャンクルーズ活動休止へ◆ パラリンピック佐藤真海との出会い
2008年春に三枚目のアルバムが「PAL-LET」がリリースされたが、池永の喉の病気(声帯結節)の発覚からジャンクルーズ活動休止へ。その後パラリンピックアスリート佐藤真海との出会いでパラリンピック普及活動、選手壮行会のイベントを開催。東京都、オリンピック・パラリンピック招致委員会と共に招致活動にパラリンピック選手との窓口として協力し、イベント開催。後にヤクルトスワローズ館山投手プレゼンツ「パラリンピックDAY
in神宮球場」を開催。 NPO法人Happy Japan Project設立。発起人として理事に就任。
その後、全国の子供達へ「命の大切さ」「あきらめない事」「夢の輝き」をテーマに佐藤真海と共に講演活動を。
人の役に立ちたいと思うようになり、主役ではなく、サポート役に回る事に決める。
◆再び音楽開始へ◆
2011年 地元尾道で、尾道からメジャーデビューをした先輩バンド「THE東南西北」のメンバーの清水伸吾氏&大池茂文氏と出会い、尾道からメジャーデビューした二つのバンドが融合した新バンド『Plastic Ono☆michi Band』(プラスティック・オノ☆ミチ・バンド)が結成される。ワンマンLIVEは全LIVE完売の人気振りである。2013年9月CDリリース
2014年には尾道故郷貢献として、存続の危機にあったシネマ尾道を応援するライブを開催し、
チケット代全額35万円を寄付。
現在は、尾道の曲を中心にジョンバーガー&カフェ、OYE COMO VAなどで活動。
尾道燦☆san / DEVIL-A/ 新開ラビリンスなど
◆初の方言指導へ挑戦◆
2011年 山田洋次監督50周年記念舞台「東京物語」の主役「水谷八重子」「安井昌二」
「波乃久里子」の尾道弁の方言指導を努める。
◆再び映画出演決定◆
2012年 原爆の語り部「沼田鈴子」さんをモデルとした映画「アオギリにたくして」のヒロインの兄役に抜擢。風見しんごさんの息子役として共演。2013年公開し、地元尾道で舞台挨拶を務める。
◆東日本大震災と気仙沼◆
東日本大震災をきっかけに、縁のあった気仙沼と地元尾道との姉妹都市計画をし、現地に通いお互い顔の見える協力体制を作り、気仙沼の有志の協力の元、友人の尾道、大手企業、著名人の力を借りながら長い目でみた応援体制を進行中。現地で会った気仙沼の人達から人生においての沢山の大切な事を学び、
生涯の活動と決める。
●義捐金 総額1千万円(富司純子さん、大田原保さん、湯浅久美さん、浜中和子さんなど多数)
●炊き出し&物資(HJP)陸前高田・宮古・気仙沼・郡山避難所・猪苗代湖避難所
●元気が出るイベント開催(著名人のお忍び訪問や、イベントをプロデュース)
●気仙沼の食を都内に繋げる活動: ㈱東京ドーム 執行役員 久岡公一郎氏と共に。
・東京ドームホテルリラッサ 三陸・宮城フェア開催(企画・推進)
・~Teppan KITCHEN~はまらいん恵比寿本店OPEN(企画・推進・コーディネート)
●佐藤真海 気仙沼凱旋イベント(HJP) 企画・推進・司会・出演者コーディネート
父は尾道育ちのお坊ちゃま、母は北海道のお嬢様。
本来なら交わるはずのない遠い土地のふたりが、東京で出会ったこと。
それが、我が家の波乱万丈な物語の始まりでした。
交通の不便な時代での実家の遠さ。
ふたりの結婚にはそれぞれの親から反対の声もあったそうです。
けれど、ふたりは一緒になる道を選びました。大学卒業した後24歳での結婚。
その翌年1977年3月31日、憲彦東京にて池永家の長男として誕生。
アグレッシブな父の仕事に合わせて、幼少期から引っ越しの連続です。
東京 → 千葉・市川 → 東京・綾瀬 → 大阪・高槻 → 北海道・札幌 …
そして、最終的には父のルーツである尾道へとたどり着きました。
父は富士ゼロックスで“日本一”のトップ営業マンとして名を馳せた後、若くして独立。
今思えば、そんな父の背中が、僕の人生のエンジンになっていたのかもしれません。
札幌から尾道の地に引っ越してきたものの、風土と尾道弁に馴染めず、人づきあいが苦手になっていく。
友達も作らず、ひとりで海や神社で読書する日々。静かな子どもだった。
だが、なぜか商売ごころだけは旺盛で、当時流行していたビックリマンシールを仲良くなった問屋から箱買いしては、1枚30円で仕入れて50円で販売。しかも駄菓子屋では「ひとり4つまで」という購入制限がある中、
裏技的な“転売ビジネス”を実現していた。
釣った鯉を売ったり、ミニ四駆やラジコンの代行制作サービス(※実際は友達に丸投げ)を展開し、その利益をもとに「歴史巡りの旅」へ。
古事記や日本書紀にのめり込み、9歳でひとりで出雲へ出かけることも。
父が経営していたLIVEが出来るインドカレー専門店のステージに置かれた楽器にも興味を持ち、音楽への関心が芽生えるのもこの頃だった。
ちなみに、地域のソフトボール大会では人生初のヒットを放つも、サードベースへ走ってしまい、始まる前に野球人生を終える。
そうして、周囲には目立たぬ地味な子どもとして映っていたが、
内には商売と音楽・歴史への情熱、ちょっとした冒険心を秘めていた。
※当時の写真は、後に起きた家事で全焼してしまったため、手元には一切残っていない。
中学時代 尾道不良人脈グラフデータベースの構築
小学3年生で「サザンオールスターズ」に憧れ、中学校1年では将来の夢を
ミュージシャンと決意。
歌も楽器も素人。でも夢だけはビッグバン。
人付き合いは相変わらず苦手で、週末は毎週一人釣り。
誘ってもいないのに親には「仲間と釣りに」と言い訳しつつ、本当は
ほぼ単独釣行。誰とも喋らずに魚と対話していた。
機械体操では鉄棒の大車輪を中学生で独学で習得。マットも得意。が、いかんせん競技に「華」がない。観客ゼロ。
誰も見ていないところで宙返りを決める日々。
「人生ってこういうもんか」と悟るのは早かった。
球技は壊滅的。小学生のとき、ソフトボールで人生初ヒットを打ったが、なぜかサードへ全力疾走しアウト。
中学のサッカーではボールに足を絡められ華麗に転倒。
これにより“チームプレー”という概念に根本から疑念を抱く。
※池永は今もスポーツの話題は無知。野球とサッカーはルールも知らない。
広島出身だがカープ選手も分からない。
しかし夢は夢。中一のある日、「これではサザンにはなれん」と自己反省し、
ついに人格改革プロジェクトを独自で発足。
人間関係という名の魔物に立ち向かいはじめる。
当時流行していた『ビーバップハイスクール』にも感化され、少し「そっち寄り」の雰囲気に憧れはじめる。
強運な事に、近所には「尾道で一番強い」と言われる4歳上のお兄ちゃんの
存在を確認。その名も「いかりもとつよしさん・双子の不良でもう一人はいかりもとしのぶさん」。人生で一番勇気を出して接近。(欲を出してお二人に)
見事に仲良くなり、これで中学生活安泰を約束されたと思ったが、いざ入学するとお兄さん達はすでに卒業。
更に、担任は身長190cmの元アメフト出身。圧倒的な威圧感により、入学
時期にイキっていた制服は翌日からおとなしいモードに。
唯一のこだわりは裏ボタンを「チェーンと龍」にしたことだけだった。
見えないから。
自身の日比崎中学校での安寧計画が見事に失敗したため、視野を尾道全般に。
ここで終わらないのが池永流。
中学2年、思春期のエネルギーを全振りし、尾道全域の「人間関係マッピング」の構築開始。
各学校の卒業アルバムを独自ルートで入手し、エリアごとの「猛者」(男子=不良リーダー格/女子=モテ可愛い)」を徹底的に洗い出す。
対象校のスクールカースト上位者をリスト化し、噂話、喧嘩時の技、(会った時に褒めるために)エピソードをタグ付け。
「尾道人脈グラフDB(Graph Database)」の構築を急いだ。
年上3年分の情報はすべて網羅済み。対象は尾道市内すべての中学校、目立つ人物は福山まで。尾道は全データカバレッジ100%。
核心となるのが、「塾にいた尾道の不良事情に異常に詳しい人物」からの
インテリジェンス供給。
彼を「尾道インフォメーションハブ」と位置づけ、毎週アップデートされる
地域トレンドを分析・インデックス化。
気になる強者と出会う可能性の高いシチュエーション(ニチイ前・商店街・
公園・特殊学生服屋(MAX/わたなべなど)に向け、会話トリガー
(話題パターン)も事前設計。
「この人に出会ったら、この話を、どの順番で、どのテンションで言うべきか」までを完全シミュレーション。
人間関係のプリディクティブ×モデリング(予測モデル)を常に試みていた。
その成果もあり、各校の猛者たちとのスムーズな接点構築に成功。
誰もが「なんでおみゃあ、わしのことそんなに知ってるん?」と驚かれる中、気づけばエリア横断型ネットワーカーとして中学生活を満喫することに。
この一連の活動こそが、のちにITと人の力を組み合わせて無数のプロジェクトを回す、池永式・分散型ネットワーク形成術のプロトタイプとなった。
ただ
ひとつだけ、計算に入れていなかったことがあった。
それは、尾道が想像以上に“狭い町”だったという事実。
こちらとしては、各学校の猛者たちとフラットかつ良好な関係を構築しているつもりだったが、情報収集力と人当たりの良さが裏目に出たのか
「え?あいつ、あっちの学校でもめっちゃ仲良くしとったで?」
「あいつ、あの学校でもちょこちょこいるよ」
と、まるでバグ報告のように二重ログインがバレ始める。
それまで完璧に見えていたマルチネットワークは、
尾道という小さなサーバー内では可視化されすぎていた。
やがて「池永=どこにでもいい顔する奴」というコードネームが
設定されていく。
それでも、中一のあの春に比べれば大きな進化だった。
魚とだけ会話していたあの日から、情報と人間をつなぐ術を学び、
失敗も含めて「関係性」というフィールドで生きる感覚を得た。
のちに音楽・IT・福祉・地域・国境をまたぐプロジェクトを展開する、
その土台がここにあった。
近畿大学付属福山高校に進学。
中学時代に培った“尾道人脈グラフDB”と会話スキルを武器に、新天地でも人脈構築に挑むはずだったが、開始5分で異変に気づく。
「このネットワーク、福山では繋がらん。」
引っ越し族が理由なのか、池永は同じ場所にいられない性質がある。すぐに外に出たがる。だが、福山では文化も空気もノリも違う。
更に、池永と全く性質の違うスポーツクラスへの入学。これは大変。
ミュージシャンを目指す池永の心の中では日に日に葛藤が芽生えていた。
高校1年の終わりには、学校生活に違和感が積もり積もってドロップアウト寸前に。
ギリギリのところで両親と担任の先生に救われたが、そのとき心の奥で確信する。「俺は、組織の中では生きられないタイプだ・・」
そこから本気でのめり込んでいったのはやはり音楽だった。
初めて自分で買った、カセット式の4トラックミキサー。
ピンポン録音ができると知ったときの感動は今でも覚えている。
ギターを録音し、次にキーボード、さらにストリングス風の音、最後に
リズムマシーンを打ち込み…
少しずつ重ねていくたびに、「曲が育っていく」感覚に心が震えた。
同じキーで声を重ねると(ダブリング)声が共鳴し合って太くなることに気づいた日には興奮。
それは、音楽がただの「夢」ではなく、現実に手を伸ばせる“手段になった瞬間でもあった。
家族が寝た後、毛布をかぶってボーカルを重ねる。
誰にも聴かせない。でも、録音ボタンを押すたびに、自分の中の何かが形になっていく気がした。
完成したカセットテープは、誰よりも自分へのプレゼントだった。
高校3年、文化祭ののど自慢大会。見事優勝。
初めて「人前で、自分の存在が認められた」瞬間。
この時期、静かに見守ってくれていた3人の先生——小林先生、森岡先生、奥田先生。
言葉で夢を語れなかった時期の無言の応援が、今でも忘れられない。
高校時代は、表面上は「空白の三年間」だったかもしれない。
でも実際は、誰にも見えない場所で「音楽」と「生き方」の基盤を、
必死に自分の手で組み上げていた」大切な時期だった。
帝京大学に進学した。
表向きの理由は「進学」。
本当の目的は、「親の資本で、東京に出るため」。
要するに、音楽で食っていくつもりなのに、進学という建前に甘えている
という、ロックとは真逆の都合のいい立ち回りだった。
口では「俺は音楽で生きる」と言いながら、
実際には生活インフラと精神的セーフティネットを完備した上での上京。
我ながら矛盾していると思うが、当時はそれすら戦略だと信じていた。
俺はポップスだからいいんだという謎の解釈さえあった。
とはいえ、音楽に対する熱量は本物だった。
東京に出る、それだけで血が沸いた。
大学の講義内容より、駅前のスタジオ料金表の方がよほど詳しくなった。
東京に出ること=プロになること。
それくらいのテンションで音楽に振り切ってた。
今思えば、あの頃の自分は完全に確信型の自信過剰だった。
「東京に行けば、いけるっしょ」くらいに思っていた。
そんな私が、大学でまず入ったのは音楽サークル。
そこで出会ったのがベースのマッキー。
弾ける、センスある。なのに自然体。銀髪でクールでかっこいい。
最初に一緒に音を出したとき、「これは長いやつだな」と直感した。
彼と一緒に、本気でプロを目指すようになる。
のちのバンド「ジャンクルーズ」の始まりだった。
そして、時代が味方する。
MD方式の8トラックMTRが登場。
「MDで8トラいけるって、どういうこと?」と軽くパニックになり、即購入。
全財産を投入し、持ち帰る時には箱を抱える手が震えていた。
録音して、重ねて、戻して、削って、重ねて、またやり直す。
“カセットじゃないから、音が劣化しない・・
毎日感動だ。
その頃、周囲の大学生は朝までカラオケとか、泊まり会とか青春してた。
俺もたまには参加する。でも、基本一度帰る派だった。
部屋でひとり、毛布をかぶって小声で録音。(壁が薄いので)
何回も録っては消して、また録って。
MDの中だけにあった自分の世界が、一番落ち着いた。
そんなある日、知り合いの女の子からふと言われた。
「うちの仲良しのお兄ちゃん、バンドでデビューしたんよ〜。かずくんともいつか共演できたらいいね!」
「へぇ〜そうなんじゃ~ほんまよね」とだけ答えていたが、内心はいやいや、俺は、そこらのとは違うからと思っていた。
しばらくしてテレビをつけたら、
その「仲良しのお兄ちゃん」が、バチバチにデビューしてた。
ポルノグラフィティだった。
「アポロ」を熱唱。仰天してぶっ倒れた。
こっちが必死で自作MDつくってた時、すでに地上波でキラキラに輝いていた。
「さて、人は人、自分は自分」と、持ち前の明るさを出し、何もなかったようにMDトラックで夢を重ねていった。
このサークルのメンバーで、「ジャンクルーズ」を結成。
その後、バンドの全国大会でグランプリを受賞。デビューし、しばらくは
音楽の夢を追いかける人生だった。
その後に、喉の病気になって断念。
しかし、人生というのは思い通りにいかない。
何をやっても順調な時期もあれば、手応えのないまま時間だけが過ぎていくこともある。
池永の場合、子どもの頃に身につけた人を観察し、つなげていく癖と、
音楽を通して培った声に出すことへの執着が、
気づけば、いろんな場面で役に立っていた。
特別な何かがあったわけじゃない。
少しずつ積み重ねた癖と習慣が、あとになって道っぽく見えてきただけのような気がする。
通常は、ここで東京ドームへの夢を果たした・・
とか書きたいが、全く書けないので本当は音楽に触れたくないが
人生の多くの時間を音楽に使ったので触れざるを得ない。
現在はPRANK PLANとして音楽活動を続けながら、
仕事でも、人や社会の役に立つことに関わっている。
振り返れば、そのどれもが特別な転機というよりは、
子どもの頃から繰り返してきたことの延長にある気がする。
人と人の関係を観察し、自然につなぐ力。
ボーカリストとして人前に立ち、声と言葉で場の空気を動かす
そんな瞬間を、何度となく経験してきた。
そして、誰よりも先に一歩踏み出してみる度胸。
それらはすべて、子どもの頃から少しずつ育ってきたものだった。
特別なことはしていない。
ただ、ずっと同じことを、少しずつ形を変えて続けているだけのような気がする。